みなさん、おはようございます。こだまんです。
『嫌われる勇気』を読んだので内容をまとめておきます。
タイトルにも書いたとおり、今の自分を変えたいと思っている人にはいい本だなと思いました。
話は「青年と哲人との会話形式」で進んでいくので、普段、本をあまり読まない人でも比較的読みやすいと思います。
「今の自分を変えたい」「今の自分から新しい自分へと一皮むけたい」と思っている人には、刺さる内容が盛りだくさんです。
本の中でも、最初は哲人の考え方(アドラーの心理学をベースにした考え)に否定的だった青年が、対話を交わすなかでだんだんと自分の考えを改めていって、固定観念を解きほぐしていきます。
それでは本の中でぼくがいいなと思った部分を引用してまとめていきますね。
アドラーの心理学では目的論で考える。
「アドラーの心理学」というのは、何となく耳にしたことがあり、そういうのがあるのは知っていましたが、詳しくは知りませんでした。
アドラーの心理学では物事を『目的論』で考えるらしいです。
本の中で青年が「何年も家に引きこもっている友人」の話をしていました。
なんで引きこもっているかを考えるとき、普通は何か原因があってその結果として「引きこもる」という状態になったと考えますが、アドラー心理学では過去の「原因」ではなく今の「目的」を考えるそうです。
ご友人は「不安だから外にでられない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情をつくり出している」と考えるのです。
つまり、ご友人には「外に出ない」という目的が先にあって、その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。
アドラー心理学では、これを「目的論」と呼びます。
なかなか面白い考え方ですね。ちょっとひねくれた考え方のようにも思えますが、こういう考え方もあるのだと覚えておきたいと思います。
・「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」ようは自分の武器を把握して、それを使うことが大事ということですかね。
・「もし何々だったら」と可能性のなかで生きているうちは、変わることなどできません。
なぜなら、あなたは変わらない自分への言い訳として「もしもYのような人間になれたら」といっているのです。
これはよくある言い訳です。結局はやりたくないから、その理由として、今、自分が置かれている状況とか環境を言い訳にして行動をしないということですね。
・アドラーの目的論は「これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない」といっているのです。
自分の人生を決めるのは、「いま、ここ」に生きるあなたなのだ、と。
過去にとらわれていては身動きができない。未来は過去の延長線上にある必要はないということです。
過去の事実はどうあがいても塗り替えることはできないので、そんなことにはこだわらずに、とっとと今やりたいことをやったもん勝ちといいたいのかなと思いました。
・「人間関係の悩みは、すべて対人関係の悩みである」この世に自分ひとりしか存在しなければ、人間関係で悩むことはない、確かに……。
・われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」
・ところが主観にはひとつだけいいところがあります。それは、自分の手で選択可能だということです。
自分の身長について長所と見るのか、それとも短所と見るのか。いずれも主観に委ねられているからこそ、わたしはどちらを選ぶこともできます。
・ご存じかもしれませんが、井戸水の温度は年間を通してほぼ18度で一定しています。これは誰が測定しても同じ、客観の数字です。
しかし、夏に飲む井戸水は冷たく感じるし、冬に飲むと温かく感じます。温度計では常に18度を保っているのに、夏と冬では感じ方が違うわけです。
この井戸水の話、実際に体験しているのでよくわかります。置かれている状況もピンチととらえるかチャンスととらえるかは自分次第です。なるべくポジティブ思考でいきたいですね。
・「もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない」
・健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。
・われわれは誰もが違っています。性別、年齢、知識、経験、外見、まったく同じ人間など、どこにもいません。
他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう。しかし、われわれは「同じではないけれど対等」なのです。
自分自身のことを自慢する人、自分の身内を自慢する人は劣等感を感じているからなんですね。確かにそうかもしれません。自分の劣等感を隠すための「自慢」なんでしょう。
・前を歩いていようと、後ろを歩いていようと関係ないのです。いわば、縦の軸が存在しない平らな空間を、われわれは歩んでいる。
われわれが歩くのは、誰かと競争するためではない。いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値があるのです。
誰かの歩いた道をいくのではなく、人と違ってもいいので今の自分をアップデートしようとして行動することに価値があるという感じかな。
・あなたは先ほどいいましたね?「幸せそうにしている他者を、心から祝福することができない」と。
それは対人関係を競争で考え、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できないのです。
しかし、ひとたび競争の図式から解放されれば、誰かに勝つ必要がなくなります。「負けるかもしれない」という恐怖からも解放されます。
他者の幸せを心から祝福できるようになるし、他者の幸せのために積極的な貢献ができるようになるでしょう。
その人が困難に陥ったとき、いつでも援助しようと思える他者。それはあなたにとって仲間と呼ぶべき存在です。
ぶっちゃけ、ぼくの中にもこの「他人の幸せを素直に喜べないわたし」がいます。それが「負けず嫌いの性格」からきていると気づかされました。
育った環境が大きく影響しているように思います。次男というポジション、祖父からの「人に負けるな」という刷り込みはその一部かなと思いました。
「誰かに勝つ」ことではなく「自分を少しでも成長させること」に集中します。
・大切なのはここからです。「人々はわたしの仲間なのだ。と実感できていれば、世界の見え方はまったく違ったものになります。
世界を危険な場所だと思うこともなく、不要な猜疑心に駆られることもなく、世界は安全で快適な場所に映ります。対人関係の悩みだって激減するでしょう。
・アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方について、かなりはっきりとした目標を掲げています。
まず、行動面の目標は「自立すること」と「社会と調和して暮らせること」の2つ。
そしてこの行動を支える心理面の目標が「わたしには能力がある」という意識、それから「人々はわたしの仲間である」という意識です。
この行動面と心理面の目標が達成できたら悩みなんてなくなりそうですね。
・適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる。アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。
賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。
小学生のころ宿題をいやいやながらやっていたのは正にこれですね。
・あなたは大きな勘違いをしている。いいですか、われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
・あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の期待など、満たす必要はないのです。
・ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。
あなたは、あなただけの人生を生きています。誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためです。
そしてもし、自分のために生きていないのだとすれば、いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか。
われわれは、究極的には「わたし」のことを考えて生きている。そう考えてはいけない理由はありません。
・他者からの承認を求め、他者からの評価ばかり気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。
・承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。
つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。そして、覚えておいてください。
もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。
相手が思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。それが当たり前なのです。
・自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。
一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。
人のことばかり気にして生きていては息苦しい。自分の人生だから自分で決めて生きたいように生きる。誰かの望む人生を生きるんではない、今の自分がベストだと思う生き方で歩むということですかね。
・アドラー心理学では「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と考えます。
つまりわれわれは、対人関係から解放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。しかし、宇宙にただひとりで生きることなど、絶対にできない。
ここまで考えれば、「自由とはにか?」の結論は見えたも同然でしょう。すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。
・きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。
しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌わることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。
つまり、自由になれないのです。
「会社からの解放」=「自由」だと思っていた節がありました。そうじゃないんですね。
「人の評価を気にせず、嫌われることを怖れず、認められないかもしれないというコストを支払っている人」って誰かなと考えたとき、真っ先に思いついたのがホリエモンでした。堀江さんは自由ですね。
・ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれています。
人として対等に接するなら「ほめる」という行為にはならないということですね。
・専業主婦の方に「なんの稼ぎもないくせに」とか「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ」と罵る男性がいます。
「金銭的になんの不自由もさせていないのに、なんの不満があるのか」といった話も聞きますね。なんと情けない話でしょうか。
経済的に優位かどうかなど、人間的な価値にはまったく関係ない。会社員と専業主婦は、働いている場所や役割が違うだけで、まさに「同じではないけれど対等」なのです。
・おそらく彼らは、女性が賢くなること、女性が自分以上に稼ぐようになること、また女性から堂々と意見されることを怖れているのでしょう。
対人関係全般を「縦の関係」で見ているし、女性から低く見られることを怖れている。つまり、強烈な劣等感を隠し持っているのです。
なんかちょっと耳が痛いような……いたたたっ。よく考えると専業主婦をしてくれる妻がいるから自分は家事のことを一切考えずに仕事に集中できるわけで。
家事をしなくていい時間を提供してくれているというものすごい価値があるんですよね。ありがたいことです。
文句も言わずに家事をしてくれている妻に感謝しなきゃいけないと思いました。
・ワーカホリックの方々は、人生の特定の側面だけに注目しています。おそらく彼らは「仕事が忙しいから家庭を顧みる余裕がない」と弁明するでしょう。
しかし、これは人生の嘘です。仕事を口実に、他の責任を回避しようとしているにすぎません。
本来は家事にも、子育てにも、あるいは友人との交友や趣味にも、すべてに関心を寄せるべきであって、どこかが突出した生き方などアドラーは認めません。
・ある意味それは、人生のタスクから目を背けた生き方なのです。「仕事」とは、会社で働くことを指すのではありません。
家庭での仕事、子育て、地域社会への貢献、趣味、あらゆることが「仕事」なのであって、会社など、ほんの一部にすぎない。
会社の仕事だけしか考えないのは、人生の調和を欠いた生き方です。
ぼくは趣味の「釣り」のことを冗談で『お仕事』と呼んでいますが、間違ってなかったということですね。
仕事ばっかりの人生はつまらないので堀江さんにならって「多動力」でいきたいと思います。
・人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。この現実に対して、アドラーはきわめてシンプルな回答を用意しました。
すなわち、「わたしは共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役に立っている」という思いだけが、自らに価値があることを実感させてくるのだと。
・あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではありません。それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではない。
ほんとうに貢献できたかどうかなど、原理的にわかりえない。
つまり、他者貢献していくときのわれわれは、たとえ目に見える貢献でなくとも、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいいのです。
・もうあなたもお気づきですよね?すなわち「幸福とは、貢献感である」。それが幸福の定義です。
「自分が誰かの役に立っている」と思えるだけで、それ即ち「幸せ」ということです。
・人生の意味とはなにか?人はなんのために生きるのか?ある人からこの質問を向けられたとき、アドラーの答えは「一般的な人生の意味はない」というものでした。
・では仮に、大きな天災に見舞われたとき、原因論的に「どうしてこんなことになったのか?」と過去を振り返ることに、どれだけの意味があるのでしょうか?
われわれは困難に見舞われたときにこそ前を見て、「これからなにができるのか?」を考えるべきなのです。
・そこでアドラーは「一般的な人生の意味はない」と語ったあと、こう続けています。「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。
「人生に意味がない」とは正直驚きました。ぼく自身、人生って何だろうと考えることがたまにあるので。
このブログのタイトルにも常に人生とは何かを研究しているという気持ちもあり「人生研究所」としました。
でも人生に意味はなくて、ぼくが人生の意味を自分に与えなきゃいけないということなんですね。
この本を読んで色々と気づかされました。
みなさんも、どうぞ。
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